旧宣教師館
と本館は、国の重要文化財に。
講堂は有形登録文化財に指定されています。
ハウス その他
本館
※現在本館は修復工事中です。(2024年完成予定)
2004年12月、国の重要文化財に指定された本館は、1908(明治 41)年、旧宣教師館(ホワイトハウス)と同時に建てられました。
設計は 立教大学初代学長J.Mガーディナー氏によるものです。当時、元町にあった 学校は発展にともない建物も増え、校地が狭くなったことから、現在地に 移転することになりました。
創立25周年を迎えた1907(明治40)年には 火事により寮全部が焼失してしまう事故に見舞われましたが、その苦難を乗り越え、100年の歳月を経て現在もなお本校の重要な教育活動の現場として用いられています。
講堂
正門をくぐり、まずはじめに右手に見えてくる建物が講堂です。本館と同じうすいピンク色と白に塗られたこの木造建築は、2002年6月、国の有形登録文化財に指定されました。
春は前庭の桜やツツジに彩られ、冬は入り口横の大きなオンコの木のクリスマスツリーとともに幻想的な光景を作ります。生徒は毎日この前を通学します。
ホワイトハウス
(旧宣教師館)
校舎奥にひっそりとたたずむ白い洋館は旧遺愛女学校宣教師館、別名ホワイトハウスと呼ばれています。
シジュウカラの鳴き声、キレンジャクの優美な色彩、70種を超える 木々と100種類以上の草花に囲まれた庭も見事で、明治時代のアメリカ建築様式を取り入れた洋風建築の傑作といわれています。
函館出身の亀井勝一郎は、寒川の渡し、立待岬の満月、旧桟橋の落日、 教会堂のポプラ並木、臥牛山山頂、五稜郭の夏草、修道院の馬鈴薯 の花と並んで、このホワイトハウスの緑陰を「函館八景」に挙げています。
1982年(昭和57年)に北海道有形文化財に、2001(平成13)年6月には、国の重要文化財に指定されました。
その他
朝の着席のチャイムと共に10分間の朝読書を行います。読む本は自分の好きな本を読むことができます。小説や新書、中には英文の本を読んでいる生徒などもいます。たかが10分、されど10分。1年間の朝読書だけで6~7冊読むことができます。知識や教養の幅が大きく広がります。
歴史・沿革Since 1874
講堂 国の有形登録文化財に指定。
※2024年完成予定
牧師、M・Cハリス夫妻が来函し
学校を開設。【創基年】
開港以来、様々な異国文化を導入してきた函館に、あるアメリカ人宣教師夫妻(M・Cハリス夫妻)が訪れたのは1874年の事でした。着任早々、ハリス夫人は、当時はまだ遅れていた日本教育の現状を目の当たりにし、特に女子教育の必要性を強く感じました。そこで婦人は、アメリカで発行されているメソジスト監督派教会婦人伝道局の機関誌に、現状と学校が必要であることを報告しました。
ちょうどその頃、アメリカのカロライン・ライト夫人は悲しみに暮れていました。最愛の娘を病気で失ってしまったのです。ライト夫人はハリス夫人同様、敬虔なクリスチャンでした。
ハリス夫人の書いたその機関誌の記事は、ライト夫人の心を揺り動かしました。
ライト夫人は昇天された愛娘への祈りと神へのご恩に報いるために、そして良き奉仕として、愛娘の教育資金にとためていたお金を献金として申し出たのです。
ハリス夫人が来函してから8年後、1882年、元町の高台に洋風の校舎が開校されました。今の遺愛幼稚園のある場所です。ライト夫人の名をとって、校名は「カロライン・ライト・メモリアル・スクール」とされました。これが遺愛学院の始まりです。関東以北の学校としては最初の開校となりました。
最初は6人の女学生からのスタートでした。その後、幼稚園の併設、校舎の現在地への移転、学科新設など学制改革を重ね、今日に至っています。
遺愛が、一貫したキリスト教主義であること、女性として、人間としての教育を大切にしているのは、こうした二人の意志を受け継いでいるからなのです。
遺愛の母であるハリス夫人・ライト夫人の肖像のレリーフは学校のほぼ中心にあるホールに飾られ、毎日遺愛生を見守っています。
ハリス夫妻の日本への愛情を
示すエピソード
明治7年(1874年)、前年に結婚したばかりのMCハリス夫妻が、函館にその偉大なる一歩を踏み出しました。メソジスト教会の宣教師として日本派遣の命を受けたハリスは、もともと東洋への伝道を希望していました。
しかし当時の函館は、ドイツ領事が暗殺されるなど、在留外国人の間では不安が高まっていました。ハリス夫妻の身を案じた友人から護身用のピストルを贈られたほどでした。
ところが、ハリス夫妻は「たとえ事故にあっても悔いることはない。武器を携えることは自分の心に反することだ」と考え、函館に向かう途中、海にピストルを投げ捨てたと言います。日本人への愛情を示すエピソードとして今でも伝えられています。
キリスト教主義女子校としては関東以北で最古の歴史を誇る「遺愛」
キリスト教主義の女子校は、東北・北海道地区に多数ありますが、最も長い歴史を有するのが、明治15年(1882年)2月1日、文部省認可の正式な女学校「カロライン・ライト・メモリアル・スクール」としてスタートした本校なのです。
当時、すでに孤児・貧児を収容した福祉施設や手芸裁縫を教えていたところもありましたが、本校が関東以北のキリスト教主義の女子校で最も古いと言われる所以は、創立当初から本格的な女子の教育機関としてスタートしたからに他なりません。
しかも、ハリス夫人が「函館に女子教育を」という考えで、遺愛の前身にあたる私塾を開いていたのは、その8年も前の明治7年(1874年)の事でした。
「遺愛」という校名の由来
本校は開校に尽力されたライト夫人の名をとって「カロライン・ライト・メモリアル・スクール」と呼ばれていました。しかし一世紀以上も昔の日本では、横文字はピンと来ない人も多く、覚えやすい日本語による校名が望まれていました。
そこで、文学者内藤鳴雪に、本校創立のいきさつを知らせて校名選定を依頼。「遺愛」の名が生まれました。
“Remembrance of Love”が英語によるもっとも適した表現であり、「遺愛」の二文字は開校に至るまでの物語を表現するのに、最もふさわしい校名と言えるでしょう。
創立者、ハリス夫人作詞の
讃美歌
遺愛の創立者の1人、フローラ・ベスト・ハリスは敬虔なクリスチャンでした。讃美歌の343番「こよなきめぐみの」は、ハリス夫人の作詞による讃美歌です。
1908年に現在の校歌が制定される以前は、この讃美歌が校歌として歌われていました。
本校の発展に尽力された、
初代理事長 佐藤昌介博士
本校の三大精神である「信仰・犠牲・奉仕」の額は、常に生徒・職員の目に触れるところに掲げられていますが、校長室に掲げられている額の文字は、大正15年(1926年)9月8日に初めて生徒たちの前に掲示されたものです。
この書は、本校の初代理事長であった佐藤昌介博士の筆によるものです。
佐藤博士と本校とのかかわりは、大正2年(1913年)、当時札幌農学校(現北海道大学)の総長だった氏が本校を視察したところから始まりました。デカルソン校長とも親交があり、「英文科の設置」「文部大臣指定学校になること」などを提案して、本校の発展のために尽力されました。
さらに遡れば、札幌農学校のW.S.クラークは米国への帰途、函館へ立ち寄り、本校創立者の1人M.C.ハリスに農学校1期生・2期生に洗礼を授けることを依頼しています。当時佐藤昌介はその1期生で、その後奇しくも遺愛の初代理事長となったのです。
鈴蘭の花を広く世に伝えたのは遺愛の宣教師たちだった
野の小道や庭に可憐に咲くスズラン。誰でも知っている花で、全国的にも北海道の花というイメージがあります。
遺愛の校章は1915年に制定されたもので左右から遺愛の文字を囲むデザインです。人格円満と純潔、謙遜を表現しています。
そしてこのスズランの花の愛らしさを広く伝えたのは、本校の宣教師達だったと伝えられています。明治時代の昔から、本校ではスズラン摘み遠足が行われるなど、ゆかりの深い花として大切にされてきました。公友会名の「鈴蘭会」は、今も生徒会名として受け継がれています。
啄木の娘が通った
遺愛女学校
石川啄木は函館にゆかりの深い詩人です。その啄木の娘である京子は遺愛女学校の生徒でした。
京子は体が弱く、残念ながら卒業することは出来ませんでしたが、在学中にたくさんの小文や詩歌をしたためました。遺愛学院の大正期の校史資料は昭和20年の日本陸軍の校舎接収のおりに大半が散逸してしまいましたが、写真や書類、いくつかの小文が今でも大切に保管されています。
セーラー服
アラカルト
多くの女子学生のあこがれの制服として知られる本校の制服は、今から約1世紀も前の昭和5年(1930年)に制定されました。残念ながら戦争によって途中何年か使用できなくなりましたが、復興が著しくなった昭和29年(1954年)には、待望の復活を果たしました。
復活当時は、教師側より生徒が積極的にかかわり、現在のデザインに決定したと言われています。
制定前は和服洋服随意とし、和服の場合は「元禄袖綿服」として質素な装いが原則でした。制服の制定は、生徒の父母からの「そろそろ制服を定めては」という意見がきっかけでした。
遺愛がモデル校だった石坂洋次郎の「若い人」
石坂洋次郎の小説「若い人」は、昭和8年~12年(1933年~37年)に発表されて人気を呼びました。青年教師と女学生、そして女性教師の3人が繰り広げる学園青春小説です。
石坂氏が執筆にあたって、本校を舞台としたと伝えられていることは、有名です。何度か映画化されました。
「函館市栄誉市民」の称号が贈られたミス・ドラ・エー・ワーグナー
米人教師、ミス・ドラ・エー・ワーグナーは、大正4年(1915年)から本校の教壇に立ち、昭和28年(1953年)まで約40年にわたって函館市の文化、女子教育、社会福祉に貢献しました。その功績が認められて、昭和42年(1967年)函館市から「函館市栄誉市民」の称号が贈られました。
本校の創立85周年記念式典のためにアメリカから来函していたミス・ドラ・エー・ワーグナーに、函館市から「あなたの心は、いつまでも函館に残るでしょう」という感謝の言葉とともに、表彰状や記念品が授与されました。
昔からあこがれの象徴だった、ホワイトハウス
本校の誇りである、遺愛女学校旧宣教師館は、美しい白壁からホワイトハウスと呼ばれています。函館出身の文学者亀井勝一郎は、寒川の渡し、立待岬の満月、旧桟橋の落日、教会堂のポプラ並木、臥牛山山頂、五稜郭の夏草、修道院の馬鈴薯の花と並んで、このホワイトハウスの緑陰を「函館八景」に挙げています。
この建物を外から眺めた函中の学生は「ミッションスクールの女子学生に対する少年のあこがれの象徴でした」と述懐しています。
1982年8月に旧宣教師館が北海道文化財に指定され、2001年6月、国の重要文化財に指定されました。
たくさんのドラマの舞台となるキャンパス
美しい校舎と季節ごとに表情を変えるキャンパスは、遺愛の大切な誇りでもあります。この美しいキャンパスを舞台に、たくさんの映画やCM、ドラマなどが撮影されました。
映画「星に願いを」(2003年公開)は、函館の魅力があふれる映画ですが、その舞台の病院として使用されたのが遺愛の本館とホワイトハウスです。撮影当時、ホワイトハウスの前庭に、ちょうど見事に咲いていたクロッカスの花が監督の目にとまり、ストーリーの小道具として急遽使われることになったという逸話もあります。
映画「PとJK」(2017年公開)ではほぼ三ヶ月間、遺愛で撮影を行い、撮影終了時には主演の亀梨和也さんと土屋太鳳さんが全校生徒を前に挨拶をしてくれました。